現在、一般の方には、
まだ覚春庵を公開しておりません。
申し訳ありませんが、
今しばらくお待ち下さい。
ご挨拶
令和6年(2024年)3月吉日、旧森川如春庵「田舎家」の移築が竣工致しました。 事業に際しまして、多大なご協力を賜り今日の日を共に迎えられますことを感慨深い思いで受け止めております。 名古屋の代表的な近代茶人、故森川如春庵こと森川勘一郎先生が名古屋市千種区菊阪町の別邸に移築したものが、この度縁あって覚王山日泰寺にお帰りになりました。
日泰寺の茶苑でもある八相苑の一角に再建し、覚王山での茶の湯を通じた文化形成に寄与したい。 森川如春庵の悲願を成し遂げたいとの思いでお引き受けしてより早くも4年の歳月が流れました。 この度森川家をはじめ名古屋の茶道界、行政のご支援も賜り、田中社寺株式会社の匠の努力によって建築の移築を無事に終え、まずは皆様に晴れ姿のお披露目とご報告を致す所存です。 また今後鳳凰台、草結庵とつながる八相苑の改修にも取り掛かる予定でございます。
国や宗派を超え、茶の湯や歴史文化を自然豊かな庭園文化から発信するために、今後とも更なるご理解とご協力を賜りたいと存じます。
そして旧「田舎家」は本日より覚王山日泰寺八相苑覚春庵として再出発いたしますことをここに宣言し、末永く皆様方に愛される「田舎家」の再出発をお伝えいたします。
令和6年3月吉日
覚王山 日泰寺 代表役員 村上圓竜
覚春庵の再興
旧森川如春庵「田舎家」は江戸時代初頭の創建と考えられ、愛知県葉栗郡葉栗村(現在の愛知県一宮市)の庄屋の元住居を茶室として如春庵が昭和3年に別邸(愛知県名古屋市千種区菊坂町)に移築した茶室です。昭和時代に解体された後は名古屋市が所有し、その後覚王山日泰寺に再建のため無償譲渡されました。総工費1億数千万円を予算化し、再建に着手し令和6年3月30日落成の運びとなりました。
この「田舎家」は名古屋の茶の湯文化においても、近代における森川の功績を考える上でも重要なだけではありません。今回の移築再建は、新しい価値観の茶の湯を追求した如春庵の意思を引き継ぎ、単なる文化財的な凍結保存を主とした移築再建ではなく、社会に開かれた茶席を目指し、日泰寺の信者のみならず、地域や国際的な交流にも開かれた文化拠点を目指した移築再建事業です。そして明治期に茶室の新形式として使用された「田舎家」の呼称からこの度覚王山に受け継がれた森川如春庵の心として「覚春庵」と命名しました。
旧森川如春庵「田舎家」の概要
「田舎家」とは、茶室の一ジャンルを指します。明治後半から民芸運動や近代工芸運動など多くの芸術文化に触発された益田鈍翁など茶人らが提唱した茶室形式を指すのです。過去の古い民家を美の極致としてとらえ、移築・収集したのです。近世までの茶道における伝統的解釈だけでなく、価値観の創造や廃仏毀釈の反省を受けて、古建築を愛でる行為は尊ばれました。「田舎家」のおおらかさは多様な価値観を受け入れる時代の性格であったとも言えます。
こうした中で森川如春庵の「田舎家」は田舎家茶室の成功例として高い評価を受けていたようです。また著作『田舎家の茶』森川勘一郎(1936)は、わが国で最も早い「田舎家茶室の定位」としても注目された宣言であり、戦前の茶道の世界では確かな先見性と自由な美意識をリードしたものでした。つまり自身の命名した「田舎家」はジャンル名にもなったのです。
当時の大茶人である高橋箒庵の茶会記では夫人の手作り料理を出すなど如春庵のアットホームな茶事を記すなど男女平等のスタイルを実践していた事が伺えます。「如春庵」の人気の高さを裏付けるエピソードでもあるでしょう。
再建プロジェクトの経過
2022年9月13日
地鎮祭が執り行われました。 村上圓竜代表役員が祭主、導師を務め、天台宗式によって、地霊を鎮める受地作法、穴を掘って供物を入れた壺を納めて、鍬入れした土で埋める穴中作法が、厳かに営まれました。 詳しい情報は