覚王山 日泰寺

歴史

1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い英領インドのピプラーワーというところで、イギリスの駐在官ウィリアム・ペッペが古墳の発掘作業中ひとつの人骨を納めた蠟石の壺を発見した。 その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が側面に刻みこまれており、それを解読したところ「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである」と記されてあった。

これは原始佛典に、「釈尊」が死去した後、遺体を火葬に付し、遺骨を8つに分けてお祀りし、その中釈迦族の人々もその一部を得てカピラヴァツに安置したとある記載が事実であったことを証明するものである。

当時19世紀の西欧の学者の間では、佛教の教祖である「釈尊」なる人物はこの地上に実在したものではあるまいという見方が一般的であって、一部の学者にいたっては釈尊信仰は太陽神話の一形式であるとの見方をしていたほどである。 そうした状況がこの発掘によって一変し、「釈尊」実在が立証されたわけであり、まことに19世紀東洋史上の一大発見であったわけである。

その後インド政庁はこの舎利瓶と若干の副葬品の呈出をうけ、舎利瓶その他はカルカッタの博物館に納めたのであるが、「釈尊」の御遺骨についてはこれを佛教国であるタイ国(当時シャム)の王室に寄贈したのである。 時のタイ国々王チュラロンコン陛下は大いに喜ばれ佛骨を現在もあるワットサケットに安置しお祀りしたのであるが、その一部を同じく佛教国であるセイロン、ビルマに分与せられた。 この時日本のタイ国弁理公使稲垣満次郎はバンコクに於てこれを見聞し、羨望にたえず、日本の佛教徒に対してもその一部を頒与せられんことをタイ国々王に懇願し、その結果「タイ国々王より日本国民への贈物」として下賜するとの勅諚が得られたのである。

稲垣公使の通牒が外相青木周藏によせられ、直ちに日本佛教各宗管長に対して、受け入れ態勢の要請がなされ、当時の佛教13宗56派の管長は協議を開いてタイ国々王の聖意を拝受することを決定、明治33年6月に奉迎の使節団を結成し、正使に大谷光演(東本願寺法主)副使に日置黙仙(曹洞宗後に永平寺貫主)の他、藤島了穏(浄土真宗)、前田誠節(臨済宗)等がタイに渡り、6月15日バンコク王宮に於てチュラロンコン国王より親しく御真骨を拝受し、又使節団が帰国後、佛骨奉安の寺院を超宗派で建立するとお約束を申しあげたところ、完成時の御本尊にとタイ国々宝の一千年を経た釈尊金銅佛一軀を下賜された。

奉迎使節団は御真骨を奉持して帰国後、京都妙法院に仮安置し、佛教各宗の代表が集まって新たに御真骨をお祀りする寺院の建立計画を協議したが、候補地をめぐって意見が分れ、これの調整に甚だ難渋した結果、名古屋官民一致の誘致運動が最後に功を奏しようやく名古屋に新寺院を建立するとの結論を得た。 ここに於て名古屋市民あげての協力によって現在の地に10万坪の敷地を用意し、明治37年、釈尊を表す”覚王”を山号とし、日タイの友好を象徴する日泰寺の寺号をもった現在の覚王山日泰寺が誕生したわけである。

釈尊御真骨を安置する「奉安塔」は東大教授伊東忠太の設計によって、ガンダーラ様式の壮麗なる花崗岩の佛塔で大正7年に完成し屹立した偉容を誇っている。 以来漸次伽藍整備が行なわれてきたが、昭和59年、現在の大本堂落成に際し、7月16日、本堂建築の任に当った鷲見弘明日泰寺代表役員と斡旋の労をとった江崎真澄国務大臣は招きをうけてバンコク王宮に伺候、タイ国々王プミポン陛下の謁見をうけ、新本堂完成の御報告を申しあげたところ、懇切なる御祝辞とともに金銅釈迦如来像一体と直筆の勅額一面を頂戴した。 勅額は本堂外陣正面に掲げられタイ文字で「釈迦牟尼佛」と記され両側にはプミポン、チュラロンコン両帝の御紋章が輝いている。

現在、この大本堂をはじめ大庫院香積台、大書院鳳凰台、普門閣等諸伽藍が林立し名古屋を代表する大寺院となっている。 境内東側丘陵地には2万5千坪の広大な墓地を有し名古屋名家の墓所が多い。

この寺院は成立の性格上日本佛教徒全体の寺院であり、いずれの宗派にも属していない単立寺院であって、その運営に当っては現在19宗派の管長が輪番制により3年交代で住職をつとめ、各宗の代表が役員として日常の寺務に携わっている、日本でも唯一の全佛教寺院として特異な存在である。

日泰寺歴代住職

第1世吉田 源應

第2世石山 覚湛

第3世日置 黙仙

第4世中村 勝契

第5世南條 文雄

第6世杉本 道山

第7世樓梧 宝嶽

第8世山本 玄峰

第9世水尾 寂暁

第10世菅原 時保

第11世高階 瓏仙

第12世常磐井 堯祺

第13世華園 真淳

第14世平 光壽

第15世藤原 善敬

第16世西洞院 時雄

第17世松本 實道

第18世水谷 教章

第19世木村 哲忍/
古布 義秀

第20世守中 隆璋

第21世伴 義台

第22世梅田 信隆

第23世常磐井 堯祺

第24世狭川 宗玄

第25世松本 實道

第26世本田 神晃

第27世渡邉 惠進

第28世山本 孝圓

第29世五十嵐 隆明/
小木曽 善龍

第30世岩田 文有

第31世井ノ口 泰淳

第32世河野 太通/
嶺 興嶽

第33世横田 南嶺

第34世江川 辰三

第35世常磐井 慈祥

タイと日泰寺の交流

明治33年6月15日(1900年)

バンコク王宮に於てチュラロンコン国王より親しく御真骨を拝受。 佛骨奉安の寺院完成時の御本尊にと、タイ国々宝の一千年を経た釈尊金銅佛一軀を下賜。

昭和38年6月2日(1963年)

国賓として御来日のタイ国々王プミポン陛下はシルキット王妃とお揃いで日泰寺に御参詣。

昭和57年10月12日(1982年)

この年はタイ国現ラタナコーシン王朝成立200年の年に当り、この日、日泰寺に於ても祝賀法要が行なわれ、タイ政府を代表して記年行事担当であったチャン・アンスチュート国務大臣、ヴィツチェン駐日大使が出席された。

昭和59年7月16日(1984年)

新本堂完成の報告に対して、タイ国々王プミポン陛下は御祝辞とともに金銅釈迦如来像一体と直筆の勅額一面を贈呈された。

昭和59年10月9日(1984年)

日泰寺本堂落慶法要が行なわれ、タイ国々王御名代としてスクマピナン・ポリパート殿下が御臨席になり、タイ国政府の代表としては外務大臣シチ閣下が出席された。

昭和62年9月27日(1987年)

この年は日タイ修好100周年に当り、両国政府によって様々な祝賀行事が催された。 日泰寺に於ても記念事業としてチュラロンコン大王の銅像が建立され、この日、祝賀法要が挙行され、政府公賓として御来日のタイ国皇太子ワジラロンコン殿下が御臨席になり、銅像の除幕入魂の儀式も行なわれた。 この様子は衛星中継によってタイ全土にテレビの同時放送があった。又法要後、国王御名代として同皇太子よりタイ国王室版大蔵経の贈呈があった。

平成元年8月29日(1989年)

タイ国々王プミポン陛下より当時の日泰寺代表役員鷲見弘明に対し、佛教を通じて両国の友好に寄与したとして最高位白象勲章(勲三等)の叙勲が行なわれた。

平成11年8月5日(1999年)

国王の御長女ウポンラット王女が御家族づれでサクティツプ大使夫妻の案内で御参詣。

平成13年9月18日(2001年)

タイ国シリントン王女がサクティツプ大使夫妻の案内で御参詣。

平成20年9月12日(2008年)

タイ国チュラボーン王女が御参詣。 ローマ字版パーリ三蔵経40巻を贈呈された。


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